東日本大震災の記憶

【日常生活】

2011年3月11日に発生した東日本大震災から12年が経過しようとしている。

関東大震災も今年の9月1日で100年となる。

日本では何度災害を経験してきたことだろう。

2011年の当時のことを思い出すと大変だった記憶しかないだろう。

または、思い出したくないこともたくさんある人もいるだろう。

☆当時の状況

当時私は、ある通信会社の保守業務を担当していた。

平時は通信障害など最悪の事態が発生しないかぎりは、直接連絡がかかることもないのだ。

ちょうどヘルプデスクの受付時間が終了する約一時間半くらいまえに地震が発生した。

当時客先との連絡や受付を行う当直ルームに数人でつめていた。

もうすぐ今日もなんとか受付時間が終了するなと思っていた。

なんだか今日は熱ぽいので、早く帰ろうかとおもっていたときに地震が起こった。

当直ルームには会議用の大型ディスプレイが2台設置しており、倒れるか勢いが2、3度あった記憶がある。

当直室の保守端末では、アラームが各地で点灯が鳴りやまない状況だった。

幸いにも主電源が落ちて使用不可能となることは避けることができた。

その日の定時17:00に業務が終了したものの自宅に帰ることは出来なかった。

正確には都内から隣接県への交通網がほぼSTOPしていたのだから帰ることができなかったのだ。

通信網はどうかというと家族に安否の連絡確認をとる者が多く一時期輻輳して電話が出来ないとゆうニュースも報告していた。

東北での津波、コンビナート火災、原発の事故など目を覆いたくなるような報告ばかり飛び込んでくる。

私がいた都内の港区周辺では大きな事故は起こっていないようだった。

また、会社では安否確認の報告をおこなうことになっている。

定期的に安否確認で災害に遭遇した場合に確認をおこなっているのだ。

そして、夜になると当然お腹が減ってくる。

買い出しに近くのコンビニや小売店では、避難難民で混雑していた。

どうやら皆今日は泊まりになりそうだということで、食料と飲み物を買い集めているようだ。

楽観的な人は、居酒屋に入っている者も見受けられた。

仕事場のビルに戻るとなにもすることもなく、多くの人は残った仕事を片づけているようだった。

なんとか朝まで仕事場のビルでやり過ごし、駅にホームに向かうと、当然ながら人だかりで駅まで入ることは出来なかった。

数時間まって何とかホームに入っても電車に乗れるまで何度もやり過ごすことになった。

前の駅から人が乗ってくるので、当然朝の通勤ラッシュよりもヒドい状況だったので、乗車することが出来なかったのだ。

電車も線路状況を確認しながらの運行なので、何度も時折停車する。

しかも、車内もギュウギュウ詰めなのでどうしても調子が悪くなる人が多くいた。

なんとか自宅近くの駅までつくと駅まで迎えにきてもらった。

最寄り駅までは電車が発していなかったからだ。

地元の人に聴くと揺れはヒドかったようで、国道線が波打っていたとのこと。

☆自宅に帰ってから

それから電車の運休が続き、しばらく会社を休むことになった。

その間には、食料品の品切れ、ガソリンの給油不足、電力の供給不足、運送関係の遅延など様々な出来事があり、ふつうの生活になるまでにしばらくの日数がかかった記憶がある。

思い出してみると忘れがちだった出来事がよみがえってくる。

この機を機会に我が家にも備蓄、避難セット、避難場所などを見直すこととなった。

電気も計画停電が発生して、オール電化の家などでは苦労があったのではないだろうか。

我が家でも自家用発電機を購入した。

毎年のことだが、この時期には備蓄の消費期限や足りないものはないか等の確認をおこなている。

実際には災害発生時に何が起こるか分からないが、事前に準備しておくことは必要だろう。

まさに災害は忘れた頃にやってくののだから。

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